2009年1月19日月曜日

最後の奴隷制

奴隷の定義 ; 意志のある主体的な存在とは認められない。
          その持ち主の意志に従ってどうにでもなる存在。

民主主義における人間も、
自らの意志に反して他者の意志を強制されるという一面を持っている。

多数が賛成した事柄は、たとえ少数の反対者がいようとも、
多数の賛成によって決定したというプロセスを元に
反対者といえどもその意志が強制される。

民主主義は非常に価値の高いものとして
多くの人に捉えられてきた。
科学的な真理というのは、
科学としての手順を踏んで証明され、
賛成者が多いか少ないかにかかわらず
真理であることが確信できる。
しかし、科学として真理が確かめられない事柄は、
最も真理に近い判断を求めるために
民主的な手続きを踏むことがいいという発想は
一見正しいように感じる。

議論を尽くして求められた結論は、
多くの人が賛成したものの方が
より真理に近いように思えるし、
それが間違えていたときも
賛成した多数者が責任をとるという形にしておけば、
間違ったときの反省もできて、以後は
より真理に近い判断ができるようになるだろうと期待できる。

しかし、民主主義には必ずしもいい面ばかりではなく
冒頭に述べた欠点もあることを具体的に指摘できる。
多くの人間が判断するということにふさわしくないことまでも
民主的な手続きで決定することに間違いがあるという指摘だ。

「どんな行為が幸せにつながるか」と違い、
「どんなルールがみんなを幸せにするか」を知るには、
ものごとを広く長く見通す必要がある。

しかし、そんなことが出来るのは特別に優れた人だけ。
あれがいいかこれがいいかと毎日一喜一憂する一般人には無理。

「どんな行為が幸せにつながるか」は自分の感覚で判断できる。
結果的に自分が幸せを感じることが出来れば、
それは「幸せにつながって」いるのだ。
これなら誰にでもできる。
一般大衆にも可能だ。

しかし、感覚で判断するのではなく、
社会全体にどのような影響があるかを考察するような
「ルール」を考えるときは、
自分の感覚を離れて
社会全体を「広く長く見通す」必要がある。

これはそのような能力がある人間にしか判断できない。

誰もが同じように判断できる事柄は
民主的な決定にふさわしいだろう。
それが最初から多くの異論に分かれて
多様であることがはっきりしているときは、
一つに決定するのではなく
多様性を実現できるような決定こそが
民主的だと言えるだろう。

誰もが同じように判断できないときは、
優れた人間の判断こそが真理に近いと言えるとき、
その優れた人間を「エリート」として見る観点が
重要になってくる。

教育の改革において、「いい教育」を考えると、
それには二つの考え方がある。

一つは
「自分の子供が幸せになるにはどんな教育が必要か」
と考える
「行為功利主義」的なもの。
もう一つは、
「いい社会になるためにはどんな教育が必要か」
という
「規則功利主義」的なものだ。

「行為功利主義」的な考え方は
自分の感じ方で判断できる。
だからこれは誰にでも判断できるものだろう。

しかし「規則功利主義」的なものは、
社会をどう捉えるかで判断が違ってくる。
社会のとらえ方が深い人間の方がより正しい判断が出来る。

そして、この両方の考えはしばしば対立する判断を導くことがある。

親が教育に期待することとして、
自分の子供が自分の希望通りの進路を進めるような
教育を望むということがあった。
しかし、人間には適性というものがある。
どれほど希望が強くとも、「下手の横好き」のようなものを
希望していれば、それはなかなか実現できない。
永遠の自分探しというジレンマに陥る可能性もある。

若いうちはいろいろな可能性を試すことは大事だが、
ある程度の年になったら、
自分の適性を正しく判断して
社会の中での自分の存在を、卑下することなく
十分使命を果たしているのだという満足感を感じながら
生活することが必要だろう。
ある意味では夢をあきらめるということも必要だ。

実現可能な違う夢を見る必要があると言い換えた方がいいだろうか。

「夢物語のような妄想的な夢を抱くのではなく、
 自分に解決可能な問題を発見することが
 科学においては重要だ」
という指摘に近いものだろうか。

私は教育に関してその機能性の方にこそ注目する。
(自分の子供がどうだとかという感性的な面は
 ある意味では無視する。)

機能性の最も重要な部分は、子供の適性に従って、
社会での適正な配置をするというものだ。
自分の適性に気づかせて、
それを意志に反して押しつけられたと感じさせるのではなく、
自らの判断で選択したという理解の下に
納得して選択させるような教育を構想していた。
いい社会を作るためにはこのような教育がふさわしいだろう。

「ゆとり教育」の発想は、子供自身の適性に関係なく、
学習における競争に打ち勝って有名校に進学することが
多くの子供と親の願いになっている現状を変えて、
本当の適性を考えて正しい判断で選択するための余裕としての
「ゆとり」を教育にもたらせようとするものだった。

だから暗記教育に偏ったそれまでの学習の内容を変えて、
総合的な判断が出来るようなものを学ぶ方向に
シフトしようとしたように見える。

だが結果はどうなったかといえば、
余裕として与えられた時間を
さらに学習の競争に勝ち抜くために使うようなことになり、
塾通いをしたりして、
その時間を有効に使えるリソースを持った
豊かな家庭が有利になるということになった。
逆に言えば、そのようなことが出来ない子供たちの
学力の低下ばかりが目立つようなものになった。

今、大学では「ゆとり世代」といえば、
学力が低いことを揶揄するような言い方になっている。
「ゆとり教育」の発想は、
「国がしばるのをやめて各自に任せよう」
というものらしい。
しかしそれでは「うまくいかなかった」と感じたようだ。

みんなが賛成した方向が必ずしも正しいとは
言えなくなったという判断がここには見られる。
インターネットの状況からもそのような判断が導かれた。
インターネットの発達で、みんなが多様な情報を得るようになった。
テレビや新聞で社会の動きを知ったのが、
ネットやケータイを利用する時間に食われるようになる。
テレビや新聞は一部の企業が運営しているから、
流れてくる情報がかたよる。
しかし、インターネットはいろんな人が情報を発信するから、
偏りが消えるだろう--。 
多くの人間はそんなふうに予想していた。
確かにいろんな人が情報を発信するようになった。
しかし多くの人たちの予想通りにはならなかった。

民主的に、みんなが賛成したことを正しいと判断していると、
実はその判断に参加するみんなが広く薄くなったときに
どうも正しい判断とかけ離れていくようだということが
見えてきたのではないかと思う。

すべての人に客観的で正しい判断力を要求することは
無理ではないかという現象が見られてきた。

人気のある言説というのは、
それが論理的に正しいというよりも、感情に働きかけて、
強い感情を生み出すような表現を持ったものになるようだ。

みんなの判断が正しい方向に行かないどころか、
論理的に考えればあり得ない判断にいってしまう。
これは民主政治が「衆愚政治」になってしまったのではないか。

ブッシュ大統領が主導したイラク戦争に驚喜したアメリカの姿は
「衆愚政治」と呼ぶのにふさわしい姿だったように感じる。
大衆の判断は必ずしも信用できない。

そのようなときは、誰の判断が信頼するに値するものか、
という信頼できる人間の見極めが重要になるだろう。
一般大衆が、本当に信頼できる人間を
正しく「エリート」として判断できるようになれば、
民主政治の欠点を克服できるだろう。

判断そのものは、複雑で難しい問題においては
一般大衆には正しく考えることは出来ない。
だが、誰の判断が本当に正しいものと信頼できるか
ということは、判断そのものを考えるよりはやさしい。

それなら多くの一般大衆にも正しく判断できそうな気もする。

民主政治の欠点を克服するには、
「エリート」に対する正しい判断と尊敬が必要だ。

誰が「エリート」であるか、それは多くの分野で
そのような人がいるだろうと思う。
そのような人を正しく判断できる資質を持ちたいものだと思う。

そして「エリート」の判断を信頼して、
その判断に賛成するという形で
民主主義の限界を乗り越えたいものだと思う。